欲求と執着への恐怖
私は小さい頃から、「人に迷惑をかけちゃいけない、傷付けてはいけない」「自分のためより誰かのため」がまず真っ先に頭に浮かんで自分の欲求を押し通すことをしてこなかったし、何かに執着して我儘を言わない、言わば『お利口さん』だった。
両親は「子供たちが何かやりたい事があれば進んでやらせるが、言わなければ与えない」というスタンスで私と兄達を育てた。この文だけだと冷たい両親のように見えるけれど、両親は私達に自由と自主性を教えたかったのだと思う。
習い事、周りのお友達がバレエや算盤塾やピアノ教室、スポーツクラブなんかをしているのが羨ましかった。22になった今でさえ、幼少期にやりたかった事をもっとやっていたら…と思ってしまう。
けれど、貧乏な家で3兄妹を育てるために共働きでほとんど家を空けて忙しくしている両親を見て、そして当時中学生だった8つ年上の兄の傍若無人っぷりや、やんちゃ盛りの2つ年上の兄に手を焼く両親を見て、自分の我儘なんて言えるわけがなかった。自分のせいでこれ以上両親を苦しめるのは死ぬより嫌だった。
そしてそれは、成人した今でも同じだった。
高校卒業後は、何になりたいかだなんて考えておらず、それほど裕福じゃない実家では大学進学は難しいから、専門学校か就職かの二択を迫られた。
当時父が肺癌で病床に伏していて、その世話をしていく中で、老いていく両親のためになるなら介護士や看護師もいいなあと思っていたところを、両親に勧められて看護学校に進んだ。けれどそれも結局、漠然としていて『絶対になりたい!』という意志はなかったし、別に両親に「介護士か看護師になりたい」だなんて一言も言ってない。そもそも自分のためじゃない。それでも勧められて進学した形になった。流されやすさも悪いところだ。
幼馴染から相談事をされ自分も病んで、それでも、「もう相談してこないでほしい」「やめてくれ」とは、傷付けるのか怖くて自分の心が壊れるギリギリになるまで一言も言えなかった。
そして今、イラストや創作で一緒に活動している友人からも、「もっと欲張りになるべきだ」「我儘を言ってくれ」「あなたは何か描きたいものはないのか」と言われたが、今もまだまだという評価。
ものに対する執着も薄いのか、今現在絵で人生を生きていくと決めた割に、いざとなれば絵だって捨てられると思っているし、小学生から9年間続けたブラスバンドだって、コンクールで全国大会に出場した過去があったとしても、高校卒業と共に一切触れなくなった。
そもそも部活動の大会だとかで涙を流すほどにそれに執着できる人達のことが分からなかった。学年最後の大会の後に同級生達が泣いている中、1人だけ涙を流さずヘラヘラしているような奴が私。自分に心はないんじゃないかと思った。あるけど。
私の持ち物で、誰かが欲しがればあげてしまうし、食べ物も自分の好きなものよりも他人の好きなもの優先して店やメニューを選ぶ。
それが皆も当たり前だと思ってた。
けれどよく見れば周りの人たちは欲求や執着がハッキリしていて。他人に迷惑をかけて失敗を沢山していても、自分のために動いていて、それすら羨ましいんだ、私は。
どうして皆はなりふり構わず、恐れずに自分の欲求を人に言えるんだろう?
どうして皆、これがないと生きていけないと言い切れるんだろう?
今でも不思議で仕方ない。
友人に「もっと我儘になれ」と言われて以降、なるべく思った事ややりたい事を言うように努力しているつもり…ではある。
けれどやっぱり怖いものは怖い。怒らないし受け止める器量は持ち合わせているから任せろ、と言われても。頭の中で常に謝罪の言葉が回る。
別に自分を卑下してるから言えないって訳じゃない。…多分。分からないけど。いや、してるのかな。してそうだな。愚か〜
…ただただ、申し訳ないだけだ。迷惑をかけた、手間を取らせた、もっといい方法があるんじゃないのか、ごめんなさい。言ったあと相手からどう思われるかも只管に恐ろしい。そんな目で見ないで。
…………なんてね。
書き出してみると滅茶苦茶にネガティブ過ぎて大きな問題のように聞こえるね。
メンヘラが加速して見える。
でも別に大事にしたい訳じゃないんだよ。今すぐどうにかなる問題とも思ってないし。
気長に努力していくよ。
眠くなってきたな…おやすみ。
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